海山にこいま 熊野古道バックパッカー

伊万里への車バックパッカーの旅!パート9

先のパート8ではちょっと伝え間違いあり。

歩くコースが反対になったのは天気ではなく、デリカで明善寺に向かう時に駅前の橋の欄干の伊万里焼きを見たからだな。記憶が飛んだ。

申し訳ない。

また、なんとも腑に落ちない事は善太郎の道中日記や善太郎を調べた資料の著書がこのデカい鳥居に触れていない事だ。これだけは何故かはわからない。著書は確か令和三年?ぐらいに亡くなっていると民族資料館さんから聞いている。その資料の中にこんな一説が、香橘神社(現伊万里神社)の岡にあった物(伊万里西国巡礼石物)を陣内の山に移した と。だからボクは伊万里神社にはノーマークで陣内の山にある善太郎の名前のある石物を探したかったのだ。

ちなみに、前川善左衛門富道は1762〜1839で77歳で亡くなる。旅をしたのが1789で、その時27歳、二歳になる娘がいた。娘や嫁さんが恋しい時に五ヶ月に渡る旅をした心情はどんなものだったのかと想いを馳せる。また、旅の九年後に父の善三郎が65歳で亡くなる。

さて、善太郎改名し善左衛門はどんな性格であったかはずっと前から気になっている。父善三郎は前川焼きの名を博した とあるから、父はどちらかと言うと物静かな職人であったのでは?とボクは思っている。引き換え、母登勢は名前のごとく登る勢いだから活発なイケイケ母ちゃんだったと考えると、善太郎はどちらに似たのか?と。

資料からは前川家が栄えたのは善三郎と善太郎の時とあるから、善太郎は父と母の良いところを引き継いだのかな?と。伊万里、伊万里焼きを愛し、そこに執着し過ぎた人物であったのは間違いないと思う。

その一面はボクも似てる部分かな!と(笑)。

伊万里神社のデカい鳥居に善太郎が居たと言う事は、善太はよく出入りしてた事だろう。善太郎を身近に感じつつ進んで行くと一回り小さな鳥居をくぐる。

確かこの鳥居にも江戸時代の年号があったが、寄付者の名前は違う。寛永五年と読み取れるか。もし寛永なら江戸時代初期である。1629年となる。

ここでまた考えた。善太郎の鳥居もそうだが、文字がはっきりしている。しかし若宮神社の灯籠はひび割れ古さを感じた。それは石の材質が違うのだろう。若宮神社の物は泥岩で、伊万里神社の物は火成岩か花崗岩だなと。泥岩は柔らかい。と言うは値段は安いのだろうと。

熊野古道で出会うお地蔵様や石物も泥岩だな。砂岩とも言うのか?はボクにはわからないが。

すると、伊万里神社の入り口にはなんとも異国情緒を感じた。

案内板は伊万里焼き?か。

今から階段を上がる事になる。

もうデリカに戻る事を忘れてしまったようだったな(笑)

つづく〜(^∇^)




by理事長

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